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五十嵐恵 (海軍軍人) : ウィキペディア日本語版 | 五十嵐恵 (海軍軍人)[いがらし めぐみ]
五十嵐 恵(いがらし めぐみ、1889年(明治22年)5月24日 - 1927年(昭和2年)8月24日)は、日本の海軍軍人。美保関事件で殉職した「蕨」駆逐艦長である。最終階級は海軍中佐。 == 人物・来歴 == ;略歴 新潟県中頸城郡旭村(現・新潟県上越市)の豪農で郡議会議員を務めた五十嵐正綱の次男。高田中学、長岡中学を経て海軍兵学校へ進んだ。五十嵐は海兵39期で、伊藤整一、角田覚治、和田操らが同期生である。席次は入校時150名中40番、卒業時148中92番。1912年(大正元年)12月少尉任官。駆逐艦乗組み、「矢矧」水雷長、「白露」駆逐艦長などを経て海軍大学校入校。甲種24期で、学生長は原忠一。山口多聞、福留繁、草鹿龍之介ら総勢20名であった。五十嵐は席次3番で卒業し〔『美保関のかなたへ』p.23〕、第27駆逐隊所属の「蕨」駆逐艦長に補された。連合艦隊の夜間主力艦襲撃訓練中、「蕨」は軽巡洋艦「神通」と衝突し沈没。五十嵐ら92名〔『美保関のかなたへ』p.84〕が殉職した。 ;人物 五十嵐は運動が得意で柔道四段、大柄な体躯であった。草鹿は「論客で、曲がったことは嫌い」と評している〔『一海軍士官の半生記』p186〕。海兵、海大とも同期の原は親友であり、体つきや性格まで似ていたという〔『美保関のかなたへ』p.78〕。「栂」駆逐艦長として美保関事件の現場にいた原は、五十嵐の死後も五十嵐家を頻繁に訪問し、戦後も交流が続いた。五十嵐家は海軍将校がよく訪問しており、山口多聞は常連であった。美保関事件時に軽巡洋艦「那珂」と衝突した「葦」駆逐艦長で、のちに殉職(戦死)する須賀彦次郎もその一人である。「神通」艦長で自決した水城圭次は五十嵐の海大時代の恩師であった。妻と一男一女が残され、事件当時3歳であった長男は日本蝶類学会会長を務めた五十嵐邁である。
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